コラム

わたしが医師になって1年目、25年前の春に出会った患者さんの話です。その方は、食道がんの術後で、糖尿病と難治性の感染症にもかかっていた70歳を超えた老婦人でした。当時では珍しく髪を紫色に染め、ひとり個室に入院されておいででした。
彼女の名前はマドセンさんといい、デンマークの方でした。入院期間が長く、病棟の看護師さんが声をかけても笑顔ひとつ見せないために、「気むずかしい人」という評判でした。病室に訪れる人はなく、いつも個室の中でひとり本を読んでいらっしゃいました。
のどを摘出したため声を失っていましたので、わたしが初めて採血のために静かな部屋の中へ入ったとき、やせ細った顔に大きな目がキラリと光り、すこし緊張したことを覚えています。
当時、フレッシュマンだったわたしの一番の仕事は、採血と点滴の確保でした。学生時代には練習したことがなく、技術を実地で学ぶしかありません。注射針を血管にうまく刺す技術は難しく、点滴だけで数時間がかりだったこともあります。1度でうまく採血ができたときは、心の中で「やった!」と自信がつきましたし、失敗したときには心底がっかりする毎日でした。
若い男性は血管が発達しているので採血が容易ですが、ぽっちゃりした女性は血管がみつかりにくいものです。マドセンさんは、それまでの治療の歴史を語るかのように腕にはたくさんの注射の痕があり、血管が硬くなり皮膚も黒ずんで、採血をするための血管が見つかりにくい「フレッシュマン泣かせ」の患者さんでした。しかし、そんな「フレッシュマン泣かせ」のマドセンさんは、治療のためには毎日、採血と点滴が欠かせないのです。
そこでわたしは血管を探す間、色々な話をして時間を稼ぐことにしました。偶然ですが、小学生の頃、デンマークのコペンハーゲンにある施設で1か月、世界中の子どもたちと一緒に過ごすCISV(Children’s International Summer Villages)に参加した経験があったので、チボリ庭園や人魚姫の銅像などの話を一方的にマドセンさんに聞いてもらいながら、懸命に血管を見つける毎日を過ごしていました。
最初は目をつむって全く無関心だった彼女でしたが、1週間がたち、2週間がたったある日の朝、なかなか上達しないわたしのためにマドセンさんが大きなプレゼントを用意してくれていました。自分の腕と足に採血ができる場所をすぐに見つけられるようにマジックでマークを書いてくれていたのです。腕の内側や膝の裏など、体のあちこちに書かれたマークを
それまで目も合わせてもらえなかった彼女に、優しいまなざしをかけてもらいながら、その日は1回で採血ができました。次の日も、その次の日も、マドセンさんは新米のわたしのために血管の場所を教えてくれました。そのお陰で、どうやって血管を見つけ、どんな角度で皮膚を引っ張り、どうやって注射針を刺すと痛くないかをマドセンさんから
マドセンさんからは、単に注射針を刺す技術だけではなく、患者さんとの付き合い方の基本までも学ぶことができたと思っています。
その年の夏、研修中だったわたしはマドセンさんの担当を外れることになりました。その後は忙しいフレッシュマン生活が続き、再びマドセンさんに会うことはなく、お礼を伝えることはできませんでした。
今のわたしのクリニックにいらっしゃる患者さんの中には、正直なところ、気むずかしい方もおいでです。そんなときは、マドセンさんを思い出し、じっくりと時間をかけて心を開いてもらえるのを待つようにしています。マドセンさんに教えてもらったこと、いまも大切にしています。
「ヨーロッパでは、50歳の誕生日は盛大にお祝いするんだよ」と教えてくれたのは、40年ぶりに会った友人Oさんです。「こないだ、オランダの友達のご主人からお祝いメールを送ってほしいと頼まれたの。ちょうど彼女の50歳の誕生日にサプライズをという趣向だったらしいの」と写真を見せてくれました。
そんなOさんから、「今日集まったみんな、同い年だよね。なんだか、みんな年を取ったねぇ」と話題は健康のことに。「最近、携帯電話の文字がみえにくくて、老眼鏡が必要になってきたの」とバッグからメガネを取り出して、スマホに保存された家族や犬の写真を見せてくれました。
Oさんがわたしに「ねぇ、なにか老化に効く薬、教えてよ」と聞いたので、「実はね、漢方医学を熟知した重鎮たちが隠れて飲んでいる薬があるんだよ。それは八味地黄丸(はちみじおうがん)というんだ。もし、体に自信がなくなってきたら、毎日、飲むといいよ」と、つい漢方医学の裏話をしてしまいました。
加齢による体調の変化がある場合、節目に来たのを自覚できたと考えてもよいと思います。こんな場合の漢方医学による診断は、「
年齢の変化とは違い、環境の変化によって体調が変わる場合があります。たとえば、朝と夕方で体重を量ってみると1kgぐらい変化していることがわかります。週のはじめと週の終わりでは、体も心も疲労の度合いが変わりますよね。さらに、気圧の変化でむかし痛めた部分がシクシクと痛んできたり、季節の変わり目に体調を崩したりする場合もあります。これらは、漢方医学による診断で「
環境の変化による「水毒」には、「水」の循環をよくする薬を使って治療を行います。例えば、 五苓散(ごれいさん)です。この治療の目的は、体の中の水分の巡りが悪く、余分な水分がたまったり、正常な臓器の働きを鈍くしたりしているのを改善することです。単にむくみを取るために、利尿剤で体の中から水分を押し出すだけではないのです。
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40年ぶりの再会と懐かしい話に囲まれながら、楽しい時間はあっという間にすぎて行きました。専業主婦で子どもの世話に追われている友人や、同じ分野で活躍している友人も、みんな半世紀を生きてきた仲間としてこれからも元気でいてほしいと心から願っています。
先日、父の80歳の誕生日を家族で祝うことができました。織田信長の時代であれば、「人生50年」といわれていましたが、先日発表になった日本人の女性の平均寿命は86.41歳と、再び世界1位に返り咲きましたね。これは日本の医療水準が高いことだけでなく、上下水道の整備など生活環境が行き届いていることなど、日本が持っている総合力の高さを証明する数字の一つだと思います。
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わたしが世界保健機関(WHO)の仕事をお手伝いしているとき、モンゴルの医療を支える取り組みについて、日本式の「薬箱」をヒントにした方法を取り入れて成功した話を聞きました。なんで遊牧民族が多いモンゴルで、薬箱が活躍しているのでしょう。
WHOの東アジア担当者の話によると、モンゴルでは、医療の普及や国民の生活環境の改善にいい方法が見つけられず困っていたそうです。薬についても、いまの日本ならコンビニやインターネットで簡単に手に入れることもできますが、草原をさすらう遊牧民にとっては、自分たちの足で医療機関を受診するしか方法がなかったそうです。
そこで、決められた場所に、薬を保管しておく「薬箱」を設置して、遊牧民が必要な薬を取り出して使えるようにしたところ、すばらしい成果を上げたのだそうです。
皆さんもご存じのように、むかし日本では各家庭に薬箱がおかれていました。薬屋さんが定期的に訪ねてきて、薬箱の中に入っている薬の状態を確認し、不足している薬を補充していくシステムも行われていました。
モンゴル式の「薬箱」は、広い草原をさすらう遊牧民が、食物と水のために決まった時期に決まった場所を通過する際に、「薬箱」から必要な薬を持って行く方法で、非常に便利だったようです。
日本が生んだ薬箱が、かたちを変えながら海外の人たちの生活と健康を守っている、というのは何だか気持ちの良いものですね。
毎朝、わたしは通勤の時に増上寺(東京都港区)の前を通ります。徳川家の菩提寺であることは皆さんご存じと思います。二代将軍の秀忠公をはじめ6人の将軍の墓所があり、12月1日まで徳川将軍家
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子どもの頃、親から「あまり冷たいものばかり飲んでいるとおなかをこわすよ」と注意されたことがあります。当時は扇風機とうちわで暑い夏を乗り切っていましたから、外から帰ってきた時、氷の入った飲み物を一気に飲み干すことが一番の幸せでした。
しかし、医学部を卒業し大学で腸管運動に関する基礎実験を始めたとき、温度が腸管の運動に大きく影響していることを経験しました。それは、冬のある日、実験室で飼っている動物の腸管運動をいつものように測定していたのですが、思うような結果が得られません。試薬をかえてみたり、実験機器を調整してみたりといろいろやったのですが、うまくいきません。
ふと窓を見たら、気づかないうちに外は大雪になっていました。自分の吐く息も白くなっており、実験室内の温度も低くなっていたことがわかりました。測定がうまくいかなかったのは、部屋の温度が下がり、腸管運動が低下してしまったことが原因でした。
この腸管が持つ温度の「センサー」を調節することで、おなかの調子を整えることができます。この季節は冷たいものを控え、おなかの中の温度を下げすぎないように心がけることが大切です。
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腸管の温度センサーを改善する薬について、研究が進んでいます。
さらに研究が進み、実は山椒と生姜だけでは温度センサーを改善する作用は少なく、
夏本番、冷たいものを飲む機会が増えます。「夏におなかを冷やすと秋に風邪をひきやすくなる」とも言います。おなかを冷やさないように気をつけてください。
今月17日から19日の予定で、宮崎県では第68回日本消化器外科学会総会が開かれています。テーマは、「In Pursuit of Gastroenterological Surgery for the Next Generation(次世代のための消化器外科を求めて)」です。私は今回、参加できなかったのですが、以前にこの学会が宮崎で開催されたときには、会場でアロハシャツが参加者全員に配られ、いつもはネクタイと背広で発表している医師たちも南国の制服に着替えて夏の日を過ごしたことを思い出します。
この宮崎の地では、大学の先輩が地域医療で活躍されています。この先輩医師から「都会ではみない病気がごまんとあるんだよ」と教えていただいたことがあります。確かに、日本全国、各地にはその地域独特の病気があるのです。
たとえば、北海道では寒さのために「冷え症」が多いと思っていたら、実は防寒対策が行き届いているために意外と少なく、むしろ東京の方が「冷え症」が多かったりします。太平洋側に比べて日本海側は湿気が多く、関節痛や腰膝の痛む方が少なくありません。
インターネットで「冷えて膝が痛んだときに、防已黄耆湯(ボウイオウギトウ)がいい」という書き込みが札幌の人からあったとします。同じ症状で悩んでいる宮崎の人は、この書き込みをみて「わたしと同じ症状だから、防已黄耆湯を飲んでみたい」と考えます。しかし、札幌の人と宮崎の人を取り囲む環境は全く異なるのではないでしょうか。
環境が異なり、体格や年齢も違えば、同じ症状でも病気の状態は違ってきます。もしかすると全く違った病気の場合もあるわけです。
もしご自身の体のことで悩んでいるときは、インターネットの情報をそのまま鵜呑みにせずに、ぜひ、医師や薬剤師など直接、医療従事者に相談してください。漢方医学を熟知した専門医に相談してみると、「あなたの症状は、防已黄耆湯ではなくて疎経活血湯(そけいかっけつとう)ですよ」と違った薬の名前が挙るかもしれません。どちらも冷え症の薬ですが、防已黄耆湯は膝から下の冷えとむくみ、疎経活血湯は腰から下のしびれと痛みに用います。
以前にもお話しした通り、漢方医学を学んだ医療従事者はまだまだ少なく、皆さんの声を直接お聞きできるだけの専門医はいません。今後、教育プログラムが充実すれば、しっかりと漢方医学を学んだ医療従事者が増えていくことと思います。
そうなれば漢方医学は、現在のようなひとつの症状に、ひとつの薬を選択する「症状名投与」ではなく、地域の特性に合わせ、その人の体質なども細かくみたうえで、病気の状態にあった薬を全国どこででも選択できるようになると考えています。漢方医学の分野でも、「次世代のため」に取り組みが進んでいます。
わたしは毎日、東京タワーを眺めて仕事をしています。昼間、夏の青い空を背景にオレンジ色をした東京タワーは、すばらしい
夏の暑さと冷房の冷えで、体調を崩す人、多くいらっしゃいますね。外に出れば「熱中症」で倒れ、会社では「クーラー病」で倒れてしまう。そんな人は、漢方医学で対策を考えるとよいかもしれません。
漢方医学には、「寒熱」という考え方があります。唇の色が紫になり手足が氷のように冷たい状態を「寒」、顔が
「寒」の状態は冬だけでなく、夏にも起こります。例えば通勤中の電車の中、オフィスでクーラーがききすぎているときなど、体が冷えてガタガタと震えてきてしまう状態は、「寒」といえます。中には、おなかが痛くなったり頭痛がしたりする場合もあります。
「熱」の状態も夏だけではなく、冬に暖房のきいた部屋に厚着でいたり、長風呂をしてしまったりしたときなどは「熱」といえます。汗が滝のように流れて、ぐったりしてしまう場合もあります。
このように体が暑さ寒さに対応できないために起こる場合のほか、感情の起伏により頭に血が上り、顔が真っ赤に鬼のようになる場合もあります。状況は様々です。
それぞれの状況に応じて対応は違ってきますが、この季節、多くの方に参考にしていただけそうな「特効薬」をお教えします。
夏の「寒」には、水分の補給方法を考えるとよいでしょう。
夏場は水分を多めにとるように気をつけている方が多いと思います。しかし、あまり冷たいものばかりを飲んでいては体を内側から冷やしてしまい、さらに外から冷房で攻められては、体はたまったものではありません。常温の水分をとるようにしましょう。
また、食事のとき、最初におなかへ入れる食べ物や飲み物を温かいものにする工夫が大事です。仕事の後の冷たいビールはおいしいですが、まずは温かいお茶を一杯胃に入れてから、乾杯をするように心がけてください。
夏の「熱」には、首の後ろを冷やすようにするとよいと思います。汗が噴き出てしまう人など、脱水を気にして水分をとると、さらに汗が噴き出てくることがあります。そんなときは冷たい水で
夏のシーズン、おいしいビールを飲めるように、漢方医学で体調管理をお願いします。
「指がドラえもんになっちゃいました」 消化器内科医のMさんから、相談を受けました。
昨年、Mさんは大腸がんで手術を受け、その後は外来化学療法を受けながら、医師の仕事も続けているのです。そう、医師も時には、患者になるんですよ。
「私の指は、ドラえもんのように、鉛筆を握ることができなくなってしまいました」と、むくんだ指を見せてくれました。その指は、皮膚の色が黒くなり爪がひび割れを起こしていました。これは、ゼローダやTS-1などの経口5-FU系抗がん剤による特徴的な副作用で、足の指にも同じような症状が出現します。
「しびれと痛みがあって、歩くのもつらいんですよ」とMさんは、末梢神経障害があることも教えてくれました。この副作用はオキザリプラチンなどの抗がん剤白金製剤によるものと考えられました。
Mさんは続けます。「いろいろと薬をつかってるんだけど、よくならないんだよね。今津先生の本には、治療を始める前から内服しないと効果がないと書いてあったけれど、わたしの症状、漢方薬では、もう治らないのかなぁ」。いつも明るいMさんが、悲しそうな声になっていました。
Mさんはむくんで黒くなった指を曲げたり伸ばしたりしながら、「わたしは、他の患者さんに比べると副作用は軽い方だと思うんだけど、この指先の症状だけはつらいなぁ」と、声もだんだん小さくなっていきます。
抗がん剤による副作用対策として、皮膚の色素沈着や爪の障害には、外用薬の塗布。神経障害には、非ステロイド性消炎鎮痛薬、ビタミンB6、ビタミンB12、ビタミン複合剤などのビタミン製剤が使われますが、なかなか、良い結果が得られません。
冷え症の治療薬として紹介した「附子(ぶし)」を使って、この指先の症状を改善させることができます。
「附子」は、トリカブトの根です。「トリカブト殺人事件」を覚えている方もおいでだと思いますが、これに含まれるアコニチン毒により中毒を起こすことがあるので、使い方には注意が必要です。
医薬用医薬品となっている「附子」をがん化学療法の副作用の治療に使用する場合は、少量から徐々に増量すると安心です。
「今からでも間にあいます」
本当につらそうなMさんに、わたしは附子を追加して内服するように助言しました。これまでの経験から、すでに症状が出現してしまっていても、うまく附子を使えば指先の症状をよくすることができると考えたからです。
わたしは、「附子を今飲んでいる薬とあわせてお飲みくださいね。動悸やのぼせといった附子の副作用に注意しながら、少しずつ量を調整していきましょう。必ず良くなりますよ」と説明しました。
医療従事者も、まだ、充分に漢方医学を理解していただいておりません。一人でも多くの医師に理解が広がるようにと願っています。
「不妊治療をしているのですが、なかなか妊娠しないのです。何とか漢方の力でお願いできないでしょうか」と、この数年の間、産婦人科へ通院されていたLさんが切実な目をしてお話しされました。中学時代から月経になると体調を崩してきたLさんは、「母にすすめられて漢方薬を飲んでいました。そのときは月経も定期的にきていたんですよ」と話します。
「結婚してからも仕事を続けていますが、体がつらく、朝は指がむくみ、夕方は足がむくみます。特に月経の前はむくみがひどく、朝起きたときに顔もむくんでいることがあります。」と月経周期で体調がかわることも悩みの種のようです。
男性にはない女性ホルモンの変化。男性の方には、あまり理解されてないかもしれませんが、漢方治療をおこなうためには大変重要なポイントになります。
女性ホルモンには卵胞ホルモン(エストロゲン)と黄体ホルモンの2種類があります。卵胞ホルモンは、卵巣から卵子が排卵するように刺激を加えます。すると卵胞となる元の黄体からは、黄体ホルモンが分泌されるようになります。このふたつのホルモンの働きによって、女性の体は変化していきます。早朝に女性が基礎体温をはかると、黄体ホルモンが分泌される時期には、体温が上昇し高温期になります。
女性が月経周期でむくみを感じるのは黄体ホルモンの変化による場合があります。また、からだの冷えなどにも関係があります。
Lさんの場合は、「からだのだるさとむくみ」がひどく、妊娠を希望されて産婦人科からホルモン治療を受けていました。しかし、なかなか結果には結びつきませんでした。わたしはLさんに「仕事も毎日、たいへんでしょうね。でも妊娠、出産も大変な仕事ですよ。いまの体の調子では、そんな大仕事をふたつもかかえることができるとは思えません。まずは、体を作らないとだめだと思います」とお話しさせていただきました。
どんなにホルモン療法で卵胞を誘発させても、体が卵胞を受け入れるだけの状態になければ、いい結果を得ることはできないでしょう。どんな畑でも、いい野菜を作るためにはちゃんと土を耕し、水を撒き、肥料を加え、太陽のエネルギーを与える必要があります。そうやって手入れをした畑に種をまき、ひとつひとつ大切に育ててはじめて実がなります。現代医学が進歩しても、からだがしっかりと準備ができていなければ、新しいいのちを育てることは難しいと考えます。
Lさんには、「まず、体の調子を整えましょう。」とお話しして、当帰芍薬散(とうきしゃくやくさん)を内服していただくことにしました。これは血行を改善して体をあたためる作用と、ホルモンバランスを整える効果が期待できる薬です。
さらに飲んでいたサプリメントや健康食品などを一時、お休みしていただきました。というのも、体に良かれと思ったサプリメントや健康食品が、知らないうちにびっくりするほどたくさんになって、逆に体に負担をかけていると考えたからです。「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、どんなに体に良いと思うものでも、体が疲れているときには毒になる場合があります。
そして、体の調子が戻るまで、不妊治療も少しお休みしていただきました。
それからLさんは毎週、外来でこれまでの経過をいろいろとお話ししていただきながら、体調管理につとめました。
朝、指がむくむ症状は1~2週間で、夕方の足のむくむは2~3週間で軽くなりました。「月経前になると、まだ、顔がむくみます。しかし、以前と比較するとよくなってきましたよ。それに疲れにくくなってきました」と笑顔がでるようになってきました。
1か月が過ぎました。「あれだけ、不調だった体が自分でも元気になったことが実感できています」と嬉しそうなLさん。「よかったですね。でも、ここで焦らず、もうしばらく畑に肥料と水をまいていきましょうね。本格的な夏がそろそろやってきます。あと1、2か月たって、暑さも本格的になったころ、不妊治療を再開してはどうでしょうか。いっぱい太陽のエネルギーをもらって、秋には良い結果がでることを一緒に期待しましょうね」とお話ししました。
胃がんの治療のため通院されていたKさんのご主人から電話がありました。先日からがんの再発で入院されていたKさんが亡くなられた、とのことでした。
わたしと笑顔の美しいKさんとの出会いは、まだ、わたしが大学で外来を担当していた数年前のことでした。Kさんが外来にお見えになるときは、いつもご主人とお二人で診察室へ入ってこられる、仲のいいご夫婦でした。
「最初の手術で胃を半分取ったのです。その後、大腸にもがん細胞がみつかりました。ただ、主治医の先生から大腸にできた病気は取りきることができないと説明を受け、バイパスの手術を受けました。」とニコニコとかわいい表情でお話しになります。
「問題は、その後なんですよ。主治医の先生に勧められた薬が、どうしても自分には合わなくて内服するのが苦しくて、苦しくて、なんとかがんばって続けてきましたが、そろそろ限界のようで、体が持ちません」と今度は今にも泣き出しそうな表情です。すると今度はご主人が「妻は、本当にがんばっているんですよ。すごい吐き気と体のだるさという抗がん剤の副作用が少しでも軽くなる方法がないものか、いろいろと調べていたところ先生を探し当てたんです」とメモをみながら治療経過について詳しく説明してくださりました。
早速、主治医宛の手紙(診療情報提供書)を作成し、現在の治療の副作用が強いことを相談にこられたこと、漢方薬を併用することについて主治医の意見をもらいたいこと、を書いてお渡しすることにしました。
その後、しばらく主治医によるがん化学療法とわたしの漢方治療を受けていただくことになりました。当初、残された時間は数ヶ月といわれていた状態からも回復し、春がきて、そして夏がやってきました。「先生にいわれた通り、漢方薬を飲んでいますよ。ね、元気でしょ」と外来にご主人と一緒にこられるKさんは、いつも笑顔でした。
「あれほどつらかった副作用も、教えていただいた飲み方だと副作用も軽くすんで元気でいられます。本当にありがとうございます」と満面の笑顔で必ずご挨拶されていかれます。わたしがお教えした内服方法は、抗がん剤の血中濃度を一定に保つことにポイントを置いた飲み方です。この内服方法をわかりやすく丁寧に説明させていただいただけでした。けっして特別な内服方法ではなかったのですが、Kさんにとっては、ピッタリと合った方法だったようでした。
その後、ときには体調が悪く、通院できない時もありました。「漢方薬が苦くて飲めません。たくさん余ってしまっています」とおっしゃるときもありました。そんなときは「いいですよ、飲めなくても。薬だけが治療ではありませんから」とご説明させていただきました。
一時、腸閉塞になり緊急手術を受けられたときなどは、ご主人ひとりで相談にお見えになっていただきました。その後は、体の芯が冷えて体調が悪くなることが多くなりましたので、人参湯(にんじんとう)と真武湯(しんぶとう)を組み合わせて作った「茯苓四逆湯(ぶくりょうしぎゃくとう)」を飲んでいただきました。「これを内服するとおなかが温まって気持ちがいいんですよ、ありがとうございます」と電話口でお話しするKさんに向かって思わず、わたしは会釈を返してしまいました。
わたしがKさんにお会いしたのは、2ヶ月前の診察が最後でした。そのときのKさんは、歩くのもやっとで、ご主人も口数少なく静かにお二人で診察室に入ってこられました。そんな時でもKさんは笑顔でお話しになりました。「先生、そろそろ体がつらくなってきました。先生の外来にこられるのも、今回が最後だと思います」とはっきりとお話しされました。わたしは胸が苦しくなるのをぐっと我慢して、Kさんの話を聞きました。「漢方治療があることを主人に教えてもらい本当によかったと思います。西洋薬と漢方薬のおかげで元気に過ごすことができました。これまで本当にありがとうございました」と優しい声で話されました。
「ありがとうございます」という言葉をくださったKさんへ。短い間でしたが、いっしょにいろいろなお話をさせていただく機会をいただきありがとうございました。わたしがこれからお会いするだろうKさんと同じ病気で苦労されている方たちに、Kさんの気持ちが少しでも届きますように。そして、「ありがとうございます」という言葉を、今度はわたしがたくさんの人へ届けられるようになりますように、みていてくださいね。Kさん、たくさんの思い出をありがとうございました。これからも、よろしくお願いします。
「がん細胞が体の中にいたって、元気で長生きなら良いじゃないの? 先生、そう思いませんか」といつも笑顔で話すHさんは、青森県からわざわざ漢方の治療を受けに来られる50歳の乳がん術後の患者さんです。
「8年前に乳がんの手術をしたとき、リンパ節に転移があったものですから、がん化学療法を受けたのですが、これがつらくてつらくて・・・」と病気のことなのにHさんは明るく語ります。「その後、数年経ってからこんどは肺に転移が見つかってしまい、ホルモン療法が始まりました。すると副作用で、きゅうに顔が暑くなったり、イライラしたりといった症状が出て困りました。そんなときに、漢方治療を始めました」。
どんな時も笑顔のHさんに、わたしの方がいつも元気と勇気をいただいていました。
しかし、一度は消えていたHさんの肺の影が、今年に入って、再び見つかったのです。乳がん術後9年目の再発に、さすがのHさんも「やっぱり、どこかに残っていたんでしょうか」とふさぎ込みます。わたしが主治医の先生の意見をたずねると、「ホルモン療法を再開するそうです。また、副作用との戦いですね」と寂しそうな笑顔を浮かべました。
漢方薬の基礎研究で、転移予防の効果が期待できる漢方薬がいくつかあります。例えば、がんの肝転移には、十全大補湯(じゅうぜんたいほとう)、補中益気湯(ほちゅうえっきとう)、肺転移には人参養栄湯(にんじんようえいとう)など、病態によって選択肢が変わります。それぞれの漢方薬の異なった作用メカニズムが明らかにされています。
Hさんの肺転移を考えれば、人参養栄湯が選択肢にあがりますが、わたしはこれまでの治療経過と診察結果、そしてHさんの様子をみて、あえて十全大補湯を処方しました。Hさんは肉体的にも、精神的にも疲れきっていました。全身の状態を改善することに主眼をおいた処方です。これでホルモン療法の副作用も軽減されるはずです。
5月になり、2か月ぶりにHさんが東京へやって来ました。「青森はまだ、寒いけれど東京はすっかり春ですね」とHさんの声が診察室に響きました。「CT検査の結果、胸のがん細胞は大きくなっていないんですって」とHさんは嬉しそうに話していました。
少し安堵したわたしに、Hさんが「十全大補湯を飲んでいると、元気になる気がしますよ」といいます。人参養栄湯か十全大補湯にするか、悩んだ末に処方を決めたわたしにとって、たいへんうれしい言葉でした。
「主治医の先生に聞けないこと、不安なこと、いつも先生に全部、ぶつけるようにしています。すると心も体も軽くなって、青森に帰ることができます」。Hさんはすっかり元の明るさを取り戻していました。
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がん治療は、エビデンスやガイドラインにそって治療が行われます。このお陰で、日本全国どこでも質の高いがん治療が受けられるようになりました。しかし、さまざまな薬が使えるようになり、効果が期待できるようになった代わりに、多くの副作用とも戦う必要が出てきました。
そんなとき、Hさんのように漢方治療をうまく活用することで、質の高い日常生活を得ることもできます。重要なことは、ひとつの副作用を軽減するためだけではなく、体全体の状態を調節するために漢方医学を活用することだと、わたしは考えます。